アレ

V

2020.7.12. 委員長とlain

 

serial experiments lain」は1998年に放送されたアニメ作品で、同時にPlayStationのゲームとしてもメディアミックスされていた。

現代で言うインターネットにあたる仮想コミュニケーション空間・"Weird(ワイアード)"と現実世界を舞台に、主人公・岩倉玲音が”人々と繋がっていき”、Wiredの神を自称する英利政美を打ち倒し、”神”に近い存在になるというのが大筋。その根底に集合的無意識とか、玲音を含めたwired利用者のアバター的な多面性がテーマになっており、現代インターネット文化の匿名性・アバター性を予見しているとも言える。

映画「マトリックス」もこの作品に影響を受けたんだっけか。

 

1998年というと、新世紀エヴァンゲリオンのアニメ放映が1995-1996年で、97年に映画版(シト新生Air/まごころを、君に)が劇場公開されている。96年頃では「天空のエスカフローネ」「機動戦艦ナデシコ」「VS騎士ラムネ&40炎」、98年頃では「CCさくら」とか「アキハバラ電脳組」、「カウボーイビバップ」「サイレントメビウス」などアニメが全盛期のころで、現場の過酷さから『ヤシガニ事件』を代表とするスケジュール破綻が話題になった時期でもある。

当時はセル画・CGの組合せが出てきたタイミングでもある。

 

エヴァ」は確か小学生の頃にTSUTAYAでVHSを見かけて借りたのが切欠だった。そこからアニメオタク人生が始まったわけだけど……「アキハバラ電脳組」なんかはそういう意識(萌えアニメ)なく見ていた気がする。

 

エヴァにしてもlainにしてもナデシコ(終盤)にしてもサイレントメビウスにしても、近未来的な世界観で少年少女が世界に向かうというのが大きな括りだと思うのだけど、その潮流が2000年代に入ってライトノベルに取り込まれ、「ブギーポップ」シリーズや「涼宮ハルヒ」シリーズのような『セカイ系』が派生していく。たぶんその辺のジャンル分けは太田克史とかに詳しい。

たぶん、今で言う『黒歴史』と呼ばれる一連の中学生の思考はこれに近い。

 

serial experiments lain」は自分にとってそこそこ思い入れのある作品で、きっかけは忘れたんだけれど、中学生でエヴァとかハルヒとかブギーポップとかにかぶれてたから知ったような気がする。その中でも、「ワケのわからなさ」がズ抜けていたのと、玲音が可愛かったのとで記憶に強い。

テレビ版エヴァの最後2話くらい意味がわからなかった。ただ、こういう時期(中学生~高校生)って「ワケ分からないものがカッコイイ」という意識があると思う、量子論とか哲学とか。そういう意味で記憶に残っている。

 

で、当時見ながら何を思っていたかなんては憶えてないし、考察サイトなんかも何言ってんだかみたいな感じだったんだけれど、今回月ノ美兎委員長と一緒に見たことで、「なるほど」と思えた部分は多かった。というか、委員長はそういう要約するのが非常に上手い。

OPの合間合間で「プレゼント・デイ、プレゼント・タイム」の裏話を披露したり、EDの時にはその話の総括をするなど(1分ちょっとしかないのに!)、物語を要約する能力について月ノ美兎は抜群のセンスを見せる。

 

8~9話だったかで、親友であるありすの自慰をlainが覗いていることを知ってしまった玲音がさいなまれる部分について、「自分の意志とは関係無く人と繋がってしまう」と言い表していたのが印象深く、また、玲音/lain/れいんの特性を捉えていると思う。

これは、集合無意識に対する指摘でもあって、集合無意識の”顕在”としてのlainならではの現象だろう。

 

TLでも大きく駆け抜けたのはlainが偏在することについて、「初音ミクは結婚したけど初音ミクは既婚者じゃない」とコメントしたこと。これはもうそれ以上表現できないほど的確だと思う。裏を返せば、そういう存在があり得ることをlainは予見していたとも言える。

インターネットアイドルは近いのかもしれない。

 

そのあと、「Vtuberlainは違う」という風にもコメントしているが、コレについては改めて見ると(全く違うとは言えないが)確かに同意する。まあ、この渾沌としたインターネットを集合無意識として統合するっていうのはVtuberとは真逆だし。

 

lainは最終的に世界をresetし、「自分を誰とも繋がらせない」という世界を構築する。

人間は、それこそアリストテレスの時代から指摘されているように、コミュニケーションによって成り立つ存在であり、社会的に規定される。weirdと現実はそこで違いはない。

ただし、そこにアバターやペルソナのような介入はあるが。

 

監督・小中千昭氏の解説blogがあるので参考にしたい。

 

yamaki-nyx.hatenablog.com

 

最終的に自分を世界から隔絶するというのは、テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」で鹿目まどかが最終的に下した決断であり、SFの名著「たったひとつの冴えたやりかた("The Only Neat Thing to Do")」で主人公・コーティが取った行動だ。「涼宮ハルヒ」を外界から観測する人達もそういう気持ちなのかもしれない。

 

最終的に義理の父が扮する「神(?)」と対峙した玲音/lainが、神から「マドレーヌでも……」と言われるのはおそらく、マルセル・プルースト失われた時を求めて」で語り手が紅茶に浸したマドレーヌの香りと味をきっかけにコンブレーの記憶を探りだすのをオマージュしているのだろう。

なぜなら、記憶は人間どうしの繋がりの中で最も他者を形作るものだからであり、あらゆる人間と繋がったことで記憶が曖昧になった玲音/lainにとって、記憶を思い出すことは、人間との繋がりを確認するものに違いないからだ。その結果、「新しい秩序」とも言える世界がrestartする。

ジョジョの奇妙な冒険」の第六部のラストで、世界の加速から取り残された少年・エンポリオが「僕の名前はエンポリオです……」と名乗ったのも、記憶から隔絶された絶望感ゆえだろう。

 

まあ、そんなこんなlainを改めて見ると、インターネット人間関係と現実人間関係ってそんな違うんかなーって。

 

*weird「変な、奇妙な(odd, unusual)」はwire「ワイヤー」と同語源。wireの過去分詞wired「ワイヤーでつながれた」。wr-が「曲がりくねった」でwrist「手首」やwring「搾る」。weiredは「ひねくれた」くらいか。